先日、民主党の仙石官房長官が自衛隊を暴力装置であると発言したことで、自民党から辞任を要求されている。
この暴力装置発言については巷でもいろいろな意見が出ている。
話題としては、もう「流行遅れ」の感はあるが、眠れないことだし、私がつらつらと考えていたことをまとめておきたい。
ただし、法学、哲学、政治学、軍事学的な根拠はまったくないのであしからず。
私が思うのは、呼び方は何でもよいのだが、暴力装置あるいはそれに近いという認識はもっていたほうがよいだろうな、ということ。
自衛隊にしろ、警察にしろ、海上保安庁であろうと、また他国の軍や警察など、各種武器を所有する団体や組織は暴力装置であると考えるのが一番だ。
なぜって? それは人を殺傷する能力があるから。
たまたま団体や組織になっているだけで、つきつめれば一つの武器、例えば銃や刀、あるいは大砲、戦車、戦闘機と変わりがない。
例えば銃で考えてみよう。
暴力装置と呼ぼうと、実力装置と呼ぼうと、はたまた神器と呼ぼうと、銃には殺傷能力がある。
殺傷能力のあるものは、慎重に扱い、人に向けて使うことは避けるべきだというのが私の基本的な考えだ。
だって私は銃に撃たれて死にたくないし、だれだってそうだろうから。
それに慎重に扱わないと、暴発ってこともある。
そう考えると、その銃(武器)をどんなふうに認識するか、というのはけっこう大事になってくる。
極端な例から考えよう。
仮に自分が銃を持っているとして、それを神器と考えてみよう。
何だか自分が神様になった気分になる。自分が正義。自分に反するものは、この神器を使って懲らしめてやる…という気持ちにならないだろうか。
実力装置。これも、オレにはこれだけの武器があるんだ、いざとなったらその実力見せてやるぜってな感じで、どんどん使いたくなるのではないか?
暴力装置なら…おれ、こんな危ないもの持ってるのか、いやだなぁ、手放したいなぁ…でも持っている以上は、慎重に扱わなきゃ…という気持ちになるのでは?
つまりそれだけ管理がしっかりとできて、扱いや使用にも慎重になる。
自衛隊だって同じ。銃や戦車、大砲などの武器とそれを使用する人間の集合体に過ぎない。
それをコントロールする政府が、自衛隊をどんなふうに認識するかによって、扱いがぜんぜん違ってくるはず。
暴力装置? 実力組織? あるいは神軍??
慎重に扱うつもりならば、暴力装置か、あるいはそれに近い認識は必要だ。
自衛隊員やその家族は、暴力装置などといわれたら、あまりいい気持ちはしないかもしれないが、
少なくとも自分が日々扱う武器が暴力装置である認識は持ってほしいものだと思う。
暴力という表現はもちろんのこと、装置という表現も問題なのかもしれない。
一人ひとりの人間の集まりである自衛隊を装置と呼ぶとは失礼な、という気持ち。
しかし、これもこれも一つの武器として考えればわかる。
銃が、突然、自らの正義感にもとづいて自分の意識や判断で、引き金を引いてしまっては困るのである。
自衛隊も同様だ。
一人の自衛隊員が、突然、自らの正義感にもとづいて戦闘機に乗って、他国を攻撃してしまっては困るのである。
自衛隊員は人間であっても、職業として一人ひとりは装置に徹しなくてはならないはずだ。
こんなことは、私がいわなくても当の隊員がきっと訓練の過程でたたき込まれるであろう。
もっとも人間なのだから、不正に怒りを覚えて、その組織を告発したいときもあるだろう。
これは普通の会社組織と同じ。不正にまで荷担して装置になる必要はない。
ただし、自分の属するのが「暴力」装置であることを忘れてはならないと思う。
自衛隊(他国ならば軍隊)の隊員が、自らが扱う装置を使って、その使用者(政府)の意に反して行動するなら、
それはクーデターやそれに類する行動だ。
銃の例えで考えれば、暴発にほかならない。
もし自衛隊員が不正を告発するなら、正当な手続きによって行うべきだろう。
(非民主的な政府のもとで、軍が無血クーデターにより民主的な政府にするという理想的なケースは別かもしれないが…少なくとも今の日本の政府がクーデターが必要なほど滅茶苦茶ではないはず)
そんなわけで自衛隊を暴力装置と認識することには基本的に賛成なのだが、
今の暴力装置発言に関する論議は、単なる政権抗争であって、どーでもいいじゃん感もある。
もう一つ。拡大解釈すれば、自衛隊を保有する政府も、暴力装置といっていいかもしれない。
となれば、政府という暴力装置をコントロールするのは、私たち国民のはず。
さらに拡大解釈すれば、私たち国民もやはり暴力装置?
となれば、私たちをコントロールするのは何だ?
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